理事長杉本の生い立ち

幼少期

生い立ち私は千葉県鴨川市という所で生まれ育ちました。鴨川市というと「鴨川シーワールド」とか「加藤登紀子が住んでいる」ということで御存知の方もいらっしゃるかと思いますが、海あり、山あり、自然がいっぱいの所です。

亀田総合病院という大きな病院があり、両親がそこで管理栄養士をしていた関係で、小学校高学年までは病院の敷地内にある社宅!?に住んでおりました。

小さい頃から周りにはたくさんのお医者さん、看護婦さん、病院関係者の方々がいたものですから、自然と自分も医療を志す事になったのかもしれません。

今では全く面影はなくなってしまいましたが、当時家の隣には田んぼが広がっていて、夜になると牛ガエルが大合唱をしておりました。小学生の頃は、朝、早起きをしてカブト虫を捕りに行ったり、空き地で野球をしたり、夏は毎日海で泳いで真っ黒になっていました。

海から歩いて1分という所に住んでおりましたから、今でも海は大好きで、波音を聞いているだけですごく癒されます。毎日海で泳いでいたくらいですから、さすがに泳ぎは達者になり、クロールでは市の大会で優勝した事もあります。

学生時代

学生時代運動は比較的、何をやっても得意な方でしたが、その中でも特に好きだったのは「野球」です。父が野球好きということもあり、小さい時から近所の友達と野球をして遊ぶ事が多かったように思います。

夏休みには、父が後楽園球場や神宮球場へ、プロ野球観戦によく連れて行ってくれました。それが何よりの楽しみでした。小学生の頃の夢はまさしく「プロ野球選手になること」であり、愛読書は、今でも忘れません「王貞治物語」でした。

しかしその野球も、高校生まで続けたのですが、自分の野球センスのなさに気づき、挫折しました。
高校1年生の時には、硬式ボールをぶつけて前歯を折り、さし歯になってしまいました。情けない…。

大学時代

大学に入ると、たまたま高校の先輩に出会い、その人に誘われるがまま、弓道部に入部しました。今まで弓道なんて興味のかけらもなかったのですが、やってみると案外おもしろくて、大会の時のあの緊張感、張りつめた空気はある意味、快感でした。武道は、精神面を鍛えるのには本当にいいものだと思います。

大学生活は、試験が多く、勉強も大変でしたが、いろいろなアルバイトを通して社会勉強をする事が出来、とても有意義な6年間でした。大学入学と同時に一人暮らしを始めましたが、歯科大生としてはめずらしいと思いますが、私は学費以外は一切、仕送りはしてもらっていませんでした。親にいつまでも甘えていては、ダメ人間になってしまうと思っていたので、自分から親にそうしてもらいました。そうは言っても勿論、勉強もしなければいけません。限られた時間で働く訳ですから、いろいろやりましたが、結局は家庭教師を数人かけもちで教えていました。

家庭教師をしていて痛感した事があります。やはり勉強は、自主的にやらないとダメだと言う事です。家庭教師に行って教えられる時間なんて、ほんの僅かです。勉強を教えるというよりも、いかにやる気を出させ、自主的に勉強させるか、その子のモチベーションをいかに維持させるか。これは今の仕事に通ずるものがあります。いくらこちらが口腔衛生指導をした所で、患者さん本人がその気になってくれなければ何もなりません。一時的に歯磨きをがんばってくれても、それが長続きしなければ全く意味がないのです。

歯医者は、治療をし、口腔内環境を整えることも大事ですが、それ以上に、それを長きに渡って持続させる事が大切です。その為に定期検診での来院を促し、それによってモチベーションを維持する事が必要なのです。

勤務医時代

私は大学を卒業し、すぐに結婚をしました。元々、人に教える事が好きな方でしたから、大学に残って教師の道に進もうかとも思いましたが、すぐに所帯を持つということもあり、開業医でより多くの臨床経験を積む事の方を選択しました。

開業前に、私は2つの医院にお世話になりました。

1件目は千葉駅近くにある(医)聖裕会 井上歯科です。ここは、本当に真面目な先生(私以外に3人)ばかりで、歯医者になりたてで、右も左もわからない私を、最初の半年間、毎晩診療後に残って指導してくださいました。この時教わった事は、今でも治療の基礎となっており、最初にきっちり正しい治療法を教えてもらえた事が、今でも、そしてこれからも役立つことと思います。「三つ子の魂百まで」じゃありませんが、何ごとも最初が肝心だとつくづく思います。最高の治療と、間近で見せて教えてもらえたここでの4年間は、私にとって、この上ないものでした。

開業するという大きな目標があったため、名残惜しくも井上歯科を退職することになり、次に(医)郁栄会 寒竹歯科医院へ勤務する事になりました。ここではまた、違う勉強をたくさんさせて頂きました。 ここは当時、1日100人位の患者さんが来院しており、その秘密は何なのか?院長先生は、すごくバイタリティあふれる方で、とにかく患者さんの為に何をすべきか?何をしたら患者さんが一番喜んでくれるのか?患者さんが困っているのは何なのか?を常に考えている方でした。

当時はまだ、やっている方も少なかった「訪問診療」にいち早く取りかかり、病院に来たくても来れないで困っている患者さんを、何とか助けてあげようと真剣でした。私も週に1回、訪問診療に同行させてもらいましたが、治療を終えると家族の皆さんも本当に感謝してくださり、とてもやりがいのある仕事でした。

2つの医院では、それぞれたくさんの勉強をさせて頂きましたが、そんなある日、転機が訪れました。

父の死です。私は、尊敬する人は?と聞かれると、ためらうことなく「父」と答えていた位、父を尊敬していました。どうしてこんなに物事を良く知っているんだろう?どうして父はこんなに人望が厚いんだろう?何かあると、いつも父に相談し、指示を仰いでいました。その父が60歳を目前にして他界してしまったのです。この時はさすがにショックでした。これからやっと親孝行出来ると思っていたのに。

父が亡くなり、逆に私は目標がはっきりしました。その目標とは、自分で開業する事でした。生前、父に言われていた事でもあり、私自身の目標でもありました。父の死後、半年で現在の篠崎という所で開院することになりました。

開院してから

平成12年に開業してから医院は順調に立ち上がり、色々ありましたが何とかこれまでやってくることができました。今までうちで働いてくれたスタッフは勿論、現在従業員として働いてくれているスタッフ、数ある歯科医院の中でうちを信じ、通ってくれた患者さん達、陰で私を支えてくれた歯科業界の方々、友人、知人、そして、一番苦労をかけた妻に本当に心より感謝致します。私一人では到底ここまでやる事はできませんでした。

これまで一生懸命に患者さんの為になるような治療を心掛けてやってきました。残念な事に、中には気分を害し帰ってしまった患者さんもおりましたが、ほとんどの患者さんがこちらの説明を最後まで聞いてくれて、こちらも納得のいく治療ができていたと思います。

現在は歯科医療を通じて社会貢献をすること、当院に通院している患者さんは勿論、当院で働くスタッフを始め、うちに関わる全ての方々を幸せにすることが私に与えられた使命だと思っております。

平成22年に法人化し、「医療法人社団ハピネス」を立ち上げました。うちに関わる全ての方々に豊かな人生を歩んで幸せになってもらいたい、その方々にハピネスを提供したいとの想いから”ハピネス”という法人名にいたしました。

今後はハピネスを提供し続けることができるよう、その事だけに集中して、私の歯科医師人生を全うするつもりです。

これからも末永いお付き合いを、どうぞ宜しくお願い致します。

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